穴吊り

方法

穴吊り(anaduri)とは、切支丹の迫害で行われた吊り責めの1種です。その方法から逆さ吊りとも呼ばれました。

この拷問で犠牲者は、縄で縛られ、地中に掘った穴に逆さの状態で吊られます。そのとき、理由は後述しますがこめかみや耳朶に傷をつけられます。また、より苦痛を増大させるために穴の中には糞尿が入れられることがありました。逆に、犠牲者の負担を下げるために腹部を覆うように縄が巻かれます。

犠牲者はこの状態で棄教を迫られることになります。

効果

この拷問では、大きく分けて2つの変化が起こります。1つは頭に血が上るという変化で、もう1つは内臓が上るという変化です。

頭に上る血

頭に血が上る感覚を体験したいなら、逆立ちをしてみると良いでしょう。逆立ちが難しいなら、ベッドや机、または椅子を並べてそこに寝転がって、頭だけを体より下にしてしばらく待てば頭に血が上る感覚が分かると思います。鏡でも用意しておけば、血が集まって顔が赤くなるのも確認できるでしょう。

この状態がしばらく続くと、頭が重くなり、頭痛眩暈意識の混濁目の充血血管の破裂などの症状が起こります。資料によると、さらにこの状態を続けると口や鼻から流血を起こしたそうです。

頭に血が上るということから考えると意外なことですが、この拷問では脳内出血はほとんど死因になりません。どうやら他の場所でなら起こる血管の破裂が、脳の中では起こらないというのが原因のようですが……なぜ脳の血管が破裂しないのかについて、私の調べた限りでは理由は不明でした。誰か解明してください。

 

単に頭に血が集まるだけならば、犠牲者の体内ではこれらの現象が起こるということになります。しかし、実際の拷問ではこめかみや耳朶に傷をつけます。なぜこんなことをするのか? 頭に上った血の逃げ道にするためです。家畜の血抜きを想像すれば、なにが起こるのかは想像できるでしょう。

犠牲者にとっては、頭に血が上ることで起こる苦痛が軽減するという効果があったでしょう。上で挙げた症状は、血液が過剰に集まることで起こるものですからね。しかし、それが犠牲者にとって良いことだったかと考えると、そうでもなかっただろうと言わざるを得ません。なぜなら、苦痛が軽減するということは、それだけ長時間苦痛に耐えられてしまうということです。

また、身動きできない状態で自分の体から血が流れ続けるという状況が、人間の精神に与える影響が小さいとは思えません。拷問官がそれを狙っていたかどうかは分かりませんが、犠牲者にとって流血は間違いなく苦痛であったことでしょう。

内臓の移動と呼吸困難

この拷問において最も犠牲者を苦しめるのは、もしかしたら自身の内臓かもしれません。なぜなら、人間は逆さに吊るされると、内臓がせり上がり、横隔膜を圧迫するからです。人間は肺で呼吸をしていると思われがちですが、正確には横隔膜と肋骨の動きで肺を動かすことで呼吸をしています。つまり、横隔膜がしっかり動かないということは、息が出来なくなることを意味します。

もしかしたら、逆さ吊りにしたら息が出来なくなるということに疑いを持つ人がいるかもしれません。なので、これが事実であることを証明する実際の事件を掲載します。

 

山形マット死事件

1993年(平成5年)1月13日夕方、新庄市立明倫中学校1年生の男子生徒が同中学校の体育館用具室内で遺体となって発見された。生徒の遺体は巻かれて縦に置かれた体育用マットの中に逆さの状態で入っており、死因は窒息死であった。山形県警察は傷害および監禁致死の容疑で、死亡した生徒をいじめていた当時14歳の上級生3人を逮捕、当時13歳の同級生4人を補導した。警察の事情聴取ではこれら計7人の生徒は犯行を認めていた。

 

事件の詳細は重要ではありません。ここで注目するべきは、逆さにされ放置された男子生徒が窒息死したということです。この事件からも、逆さにされることが窒息に繋がるということが分かると思います。

考えてみれば、穴吊りの拷問では犠牲者の体を縄で巻きます。これは内臓が動いて横隔膜を圧迫することを防ぐためなのですが、そもそもこのような措置をしているということが、逆説的にそうしなければ犠牲者がすぐに死んでしまうことの根拠になりますね。拷問において、死なせることは目的ではないのですから。

 

 

歴史

この拷問が考案されたのは、江戸時代初期の17世紀です。切支丹への対策として長崎奉行今村伝四郎と曽我又左衛門により考案されました。

片岡弥吉の書いた『長崎の切支丹』によると、この拷問による殉死者は121名となっています。もちろんこの数字をそのまま信用するべきではありませんが、それにしても少なくない人数の切支丹がこの拷問によって亡くなったことは間違いないでしょう。

あまりにも厳しいこの拷問は、しかし後世には受け継がれなかったようです。事実、江戸においてこの拷問は、正式なものとして認められませんでした。