百聞は一見に如かずという言葉があります。
百聞(ひゃくぶん)は一見(いっけん)に如(し)かず
出典 小学館
《「漢書」趙充国伝から》人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる。
これは全くその通りで、人から聞いたり本を読んだりするよりも、実際に自分の目で見たり、体験したりしたほうが良く理解できるものです。
しかし、だからと言ってなんでも見たり体験したりできるのかといえば、もちろんそんなことは不可能ですよね。
私も、拷問に対する理解を深めるためにヨーロッパの博物館や拷問に関わる場所を巡る旅がしたいと常々考えていますが、社会的にも金銭的にも実現できそうにありません。
もっとも、博物館ならまだ不可能ではないかもしれませんね。
物理的には、行こうと思えば行けるわけですから。 (様々なものが犠牲になりますが……)
ですが、世の中には絶対に実現できないこともあります。
「拷問を見る」というのは、その1つだと言って良いでしょう。
拷問は「一見」ができない
もちろん法を犯せば可能なのでしょうが、私にはそのつもりがありませんし、そんなことは実現するべきでもないと思います。
あるいは、SM行為の延長として、拷問を見たり体験したりすることはできるのではないかと思う人もいるかもしれません。
しかし、私はこの考えには賛成できません。
というのも、SMでの苦痛を与える行為には、快楽を得るという目的があるからです。
これに対して、拷問での苦痛を与える行為には、自白や情報を吐かせるという目的があります。
これら2つは、苦痛を与える目的が全く違いますよね。
目的が違えば、行動は自然と変わるものです。
たとえば拷問の木馬責めが、SMでは人体を裂かないように改良されたように。
たとえSMでより激しい責めを行うことで拷問と似たようなことができたとしても、それは拷問のようなSMであり、決して拷問そのものではありません。
残念ながら、これはそういうものだと諦めるしかないのです。
拷問は「百聞」ができる
百聞は一見に如かず 。
しかし、その一見が絶対に不可能。
であれば、たとえ「如かず」とはいえ、百聞をするしかありません。
拷問の場合、「聞」は資料を読むことに置き換えられます。
資料を1冊読むことは、実際に体験することには及ばないまでも、確実に拷問を理解することになります。
百聞といわず、二百聞、三百聞とすることで、ようやく一見に及ぶでしょうか。
なんとも気の遠くなるような話ですが、言い換えればまだまだ終わりを気にせず続けることができるとも言えます。
気長にやっていこうと、そう再認識する今日この頃です。